去年開拓した。元々車庫と工具等置き場にしてたけど。壊れかけたピアノや古くなったソファー等を運んだ。(家具を独りで運ぶのも上手くなった。ゴザや絨毯等を敷いたりして少しずつ移動させる)ペンキ塗りも時々している。床のスノコや灯油ストーブも用意した。メインは薪ストーブでミニバーベキューや鍋。ちょっとしたソロキャンプ。ギターやプロジェクターを持ってきたりもする。夏の夜は涼しくて良いかも。冬場は寒すぎたので日中に鍋。2階には自分で用意した薪を並べている。2、3年前は外にドラム缶を用意して水道をホースで持ってきて薪で風呂を沸かしていた。水着で。家は山の一番上の家で車も人通りもない。湿気の多い場所。すぐ近くに川も流れていて庭には山水も来ている。外側からちょうど見えない。ドラム缶に飽きたので納屋で薪ストーブを使う事にした。水道も消火器も用意して安全。薪はチェーンソーで自宅にかかってきた木を切ったりした。ナタで薪を割った。私が男に捕まらなかったのは頼らなかったからだと思う。何1つ誰にも頼った事がない。思い返しても重いものを運ぶときも運んで貰えるのは業者(引っ越し屋、大工等)にお金を支払った時だけだった。頑固者の様に簡単な好意に少し甘えたりする事が一切出来ない訳でもなかったけど。小さな事を試みて頼んでみた事はあったと思う。大抵は難しい事を特に自分から頼む事は無かった。何でも男らしい事でも自分でしてきた。でも、こういう風に行動思考循環を巡らせるのは初めでではない。いつも忘れていて力仕事やDIYをする度、思い出して良い気分になっている。そう思うと自分自身の孤独を余り気にしていない事が分かる。ただ時としてその思い込みの原因に疑問を感じたり、見えない監視の嫌がらせの声に惑わされ傷付いたりしているだけなのだ。けれども決してワイスピの様なファミリーみたいなものに憧れなかった訳でもなかった。自分だけの事に関してはいつも先頭をきって誰かの後に付いて行く様な事が無かったのだと思う。今となっては人恋しくもなく誰かに人間らしい距離感で少しは関心を持つ事もしなくてはと思う様になった。誰もが自分の気持ちのどこかで自分を慰めながら生きているのに人の人権やプライバシーを無断で覗き見て、わざわざ気持ちにつけこみ陥れ嫌がらせを続ける卑劣な連中がいる。絶対に許されない。誰も許さない。誰も傷付く練習や訓練をする必要はない。人がどうゆう風に苦しみに耐えるかを調べる必要などない。苦しみに耐える術までを調べられそれさえも奪われてしまえば人の心は亡びてしまう。とても恐ろしい事だ。誰も苦しみに馴れる必要はない。人の苦しみの分領は誰にも分からない。単に不器用な人間のする事ではない。執拗に人を観察し苦しむ姿を見て喜び続けている。人に危害を与えたり人の思想を知った気分になって実験やゲームをして楽しむように喜んでいる連中がいる。人を人間と思っていない。退屈や憂さ晴らしに人の人生を平然と当たり前の様に踏みにじっている。